自分考古学

三十代のある日、ふと「目的主義」という言葉を思い出した。35,6歳の頃かなあ。

むかし、予備校に通ってた頃、「目的をもってそれに向かって努力する者」のことを「目的主義者」と呼んで軽蔑していた。「あいつは、目的主義者だからな」といいような言い方をしてあざ笑っていたのだ。

で、その言葉を20年ぶりくらいに思い出し、その意味も思い出したのだが、なんで軽蔑してたのか、その理由が今となってはさっぱりわからない。つーか、普通に考えたら立派じゃん。目的主義者。

でも、確かに軽蔑してたのは覚えてる。それに、その「目的主義者を軽蔑する」という心性は、少なくとも、22,3才頃までは、自分の中に確実にあったような気がする。社会に出て、働いているうち、いつの間にか忘れていたのだ。それで、今となっては、もう、なんでそんな思いをもっていたのかすら、さっぱりわからなくなってしまった。

しかし、それって気持ち悪い。「ほら、アレ、何やったっけ……。ほら、あのギャグマンガ。古谷なんとかの描いてた、ほら、あの……」みたいなものである。なので、それからずっと、何年も、なんで軽蔑してたのか、その心性を思い出したいと願い続けていた。

ひとつには、自分への正当化かなとも思った。予備校で、周りはみんな受験のために一生懸命勉強している。でも自分は勉強したくない。だから、「せこいなあ。勉強ばっかりして」と、怠け者の自分への正当化の理論を作ったということ。

しかし、これはどうもしっくりこない。そういうのって、本音の部分では単なる強がりだとわかってる。でも、そういうことじゃなかったのだ。説明しづらいが、自分の感情にウソはつけない。そういうのじゃなかった。第一、当時、受験勉強をちゃんとするヤツは、当たり前に、えらいと思ってた。むしろ、「目的主義者の軽蔑」は、受験とは関係ないところで、感じてたような気がする。

その後、麻野は会社をやめ、子ができ、と毎日が変わっていった。生活が変わり、立場が変わると、ものの考え方も変わる。今までと違う視点でものを見るようになる。そのおかげだろうか。この前、バスに乗ってるときに、不意に思い出した。というか、あ、これかなというものが湧いてきた。

不純なのだ。目的主義者は。将来のために現在を犠牲にしている。現在を生きることに不誠実なのだ。

そのバスの中で、ついでに大学時代のエピソードもひとつ思い出した。演劇部でのできごとだ。ときおり卒業したOBが練習を見に来る。あるとき、「演劇部時代に経験したことが、後に役に立った」ということをいうOBがいた。それ自体は、別にどってことない話だ。というか、普通、逆はいわんだろう。「演劇部時代に経験したことは、後の人生で、まったくムダだった」と聞かされたら、現役はなえる。だから、そのこと自体はたいしたことない話だ。「だから、がんばって、いい芝居作りなさい」という先輩の励ましにすぎない。

しかし、後日、後輩のO村というのが、そのときのあいさつを持ち出してきて、「あの話、嫌いでした」といったのだ。それを聞いて麻野は、すぐに意味がわかった。そして非常に共感した。つまり、こういうことだ。

「オレたちは、後に役にたちたいと思って、今、芝居をしてるんじゃない。今、したいからしてるんだ。役にたつとかたたないとか、打算的なことは考えたくもない。汚らわしい!」

この話も同時に思い出すことによって、「目的主義者への軽蔑」の心性、やっと解いたと、ほぼ確信した。(「ほぼ」というのは、1%ほど、記憶に自信がないのだ。O村との話は完全に覚えてるのだが、予備校のときのは、まだ100%確信がない。上の、「ほら、あれなんやったっけ?」のマンガは、「稲中卓球部」なのだが、「縄中卓球部」だったような気がするくらいの、自信のなさ」だ。でも、まあ99%はそうだと思ってる。)


今、現在していることに自分自身を投げ込むのは美しいが、将来のために何かをするのは、打算的で美しくないのだ。だから、目的に向かって努力するものは醜いのだ。これが、「反目的主義」です。


誤解のないようにいっておきますが、私の今の考えとは違います。昔、そういうことを考えてたんだというだけの話です。
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by asano_kazuya | 2005-04-04 13:21 | 身辺雑記