人生の裏街道

いつもいつもつまらないことを書いてるが、今回は、本当につまらない。時間のムダにしかならない話だ。書いておいてなんだが、読まないことを強くお勧めする。




「人生の裏街道」というフレーズがある。

ヤクザや詐欺師なんかの犯罪者が自嘲気味に言うのだ。「あっしは、人生の裏街道を歩いてきたんでござんす。お天道様に顔向けできない人生ざんした」などと。

しかし、どうにも不可解なコトバだ。麻野は、子供の頃、このフレーズを初めて聞いた時、説明しがたい居心地の悪さを覚えた。

意味としては、「裏社会を生きてきた」ということだろう。それはわかる。が、それがなんで、「人生の裏街道」という表現になるのだ? 「裏の人生街道」とか「裏街道人生」ならわかるんだけど。

麻野の疑問は伝わりにくいかもしれない。もう少し詳しく書く。

英語だと、冠詞によって、同じ単語でも、その意味合いが変わる。「a」だと、一般的なものを指し、「the」だと、ある特定のものを指す。たとえば、「a car」は、「ある車」であり、「車というものは」であり、「the car」は「その車」だ。

……もしかしたら違うかもしれない。自信ない。まあいい。何がいいたいかというと、日本語には、英語のような冠詞がないから、どっちともとれる場合があり、片方だと変に聞こえるが、もう片方だと変じゃない場合がある。で、「人生の裏街道」の場合はどうかというのを検証したいのだ。

「人生の裏街道」の「人生」は「人生一般」なのか、「ある特定の人の人生」を指すのか、どっちなのか。(「ある特定の人の人生」は「馬から落ちて落馬した」みたいな言い方だな。「ある特定の人の一生」の方が適切か。どうでもいいけど)。

英語は不得意なのでまちがってるかもしれないが、あえて書くと、

A:I walked on a 裏街道 life.
B:I walked on my 裏街道 life.

の、どっちをいいたいんだろうかという話だ。

Aの「a life」だと、「いわゆる人生には裏街道人生と表街道人生がある」ということになる。Bの「the life (my life)」だと、「あっしの人生には裏街道人生と表街道人生がある」ということになる。

しかし、後者は論理的に変だ。人生は一度きりなので、生きてきた人生と違う人生というのは、空想のなかにしかない。「あっしの人生の裏街道」という表現には、言外に「表街道」というものもあったことを示している。しかし、何度も書くが、人生というのは一度きりのものだ。本人にとっては裏も表もないはず。単に他人と比較して「オレの人生、なんだか裏っぽいぞ」と思ってるだけだが、そのときの「裏っぽい人生」の「人生」は、「a life」のほうだ。

I walked on a 裏っぽい life。

ということになり、Bではなく、Aになってしまう。

「裏の顔」というものはありうる。表向きは善人だが、人の見ていないところでは悪人というのは、ありうる。しかし、人生の表街道を歩いたり、裏街道を歩いたりというのは、意味がわからない。表を歩いてきたからこそ、裏を歩いたといえるのだが、もし、表を歩いてるなら、裏街道を歩いてきたと、理論的にはいえない。

じゃあ、前者だろうか。Aの「a life」なんだろうか。だとすると、特定ではなく、色々ある人生一般のうちの、ある生き方のことを言ってることになる。でも、そしたら、やっぱり、「人生の裏街道」という表現より、「裏街道の人生」の方がしっくりくる。

「人の一生というものに、表側の生き方、裏側の生き方というものがあるとしたら、あっしの人生は裏側でした」と。そういう意味で、「裏街道の人生でござんした」なら、喜んでうけいれよう!

うーん。たぶん、まだうまく伝わってないだろうなあ。
じゃあ、こういうのはどうだろう。ある人(ネコでもいい)が自分の人生を振り返ってこういうのだ。

「私は人生の男(オス)を生きてきた」

変でしょ?

「私は男(オス)の人生を生きてきた」

これだと、すんなり頭にはいるでしょ。(ネコだと「人生」じゃなくて「猫生」じゃないかというのはおいといて。)

ちなみに、「今、人生の春を謳歌している」とか、「人生の秋を味わっている」は全然OKだ。「人生」を「四季」にわけて、いまどこにいるかは、ありえる話なので、違和感がない。

「裏街道の人生」とか、「裏街道めいた人生」なら、納得が行く。世の中には、さまざまな人生がある。裏街道といわれる人生も、表街道といわれる人生もある。でもって、「わっしは、悪いことばっかりして、裏街道の人生でござんす」なら、すんなり頭にはいる。

でも、「人生の裏街道」といったとたんに、「わしの人生の裏街道」と聞こえて、「人生のオス」ってなに? と同様の違和感が生じるのだ。

双子がいて、「私は表街道を歩いてきた」、「あっしは裏街道専門でした」という前提があった上での、「あっしは(わしら二人の)人生の(うちの)裏街道を歩いてきました」なら、許せる。ありえる。かまわない。

でも、そんな前提のある話じゃない。あたりまえだけど。

そもそも、世の中には裏表が発生するものと、発生できないものがある。紙に裏表はあるが、球に裏表はない。あえていうと、見ているこっち側が表で、見えないのが裏だろう。「月の裏側」とかいうから。が、あくまでも便宜上のものだ。球体の裏表は確固とした識別はしにくい。個人の人生はは紙タイプではなく球体タイプ……って、これはあんまり関係ないか。

オスの人生はあるし、メスの人生もある。しかし、人生のオスや人生のメスはない。「世間の裏街道」ならあるし、「社会の裏街道」もある。「裏の人生街道」という表現なら文句ない。でも、「人生の裏街道」だけは、麻野はいまだにしっくりこないんだ。





ね、つまらなかったでしょ。読んだ人。すんません。わからなかったらイライラするだけだし、わかったとしても、だからなんなんだ、という、最悪の話でした。それに大体、麻野が勘違いしている可能性も大いにある。

しかしねえ。子供の頃って、こういう違和感を持っても、伝える能力がまったくない。微妙すぎてうまくいえない。ただ、ストレスがたまるだけ。

この年になっても、これぐらいの表現力しかないので、100人いて、何人に伝わってるかわからないけど、1人でも伝われば、すごくうれしい。大人になってよかったと思える瞬間かもしれない。
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by asano_kazuya | 2006-04-06 22:49 | 身辺雑記