カテゴリ:身辺雑記( 126 )

(※このブログ、2011年12月9日に書きましたが、その後、複数の方から得た情報から、不適切な部分があると判断したので、翌日、書き換えました。書き換えたのは、「現在、VR非搭載DVD機がほとんどである」という点です。地デジ対応機はすべて対応しているので、いいすぎだと思い、改めました。)


地デジ対応のHDD/BD買ったけど、買い置きしていたDVDがたくさん余ってる人いませんか? もったいないので地デジ番組を焼こうと思っている人や、それを友達の家に持って行って観ようと思っている人もいるかもしれません。

麻野も、地デジでいい番組があったので、「これ、学校の授業で使おう。よし、DVDあまってるから焼くぞ」と思ったのですが、意外とトラップがありました。

「そんなの、知ってる!」という方も大勢いらっしゃるかもしれません。そういう方は読むだけムダなので、無視してください。しかし、「え、どういうこと?」という方は、良かったら参考にしてください。時間とお金を節約できるかもしれません。

まず、

1:地デジをDVDにダビングするためには、CPRM対応のDVDメデイアが必要。

地デジの番組には、コピーが10回までしかできないという制限があります。CPRM非対応だと、そういった制限をフォローしてないので、ダビングができません。現在、店頭では、「対応」・「非対応」両方のDVDメディアを売っていますが、むかーしに買ったナマDVDだと非対応の可能性が高いでしょう。

2:地デジを録画するときは、VR方式になる。それに対応していないDVD機も多い。

地デジをダビングするとVRという形式になります。これは、地デジ対応のDVD機であれば対応していますが、アナログ時代のDVDマシンは非対応です。PCに搭載されているDVDプレイヤーも、少し古いと同様でしょう。麻野が教えてる学校の再生機も非対応でした。

BD(ブルーレイ・ディスク)は、上記に関してはクリアしています。なので、今後地デジ対応BD機が増えてきたら、BDで焼こうとも、DVD(CPRM対応)で焼こうとも、再生のことを機にしなくていいようになると思います。

ただ、過渡期である現状だと、

・古いDVD(CPRM非対応)だと、そもそも焼けない。
・CPRM対応で焼いても、よそで再生できないかもしれない。

ということになります。


いずれ、世間の多くが地デジ対応BD機になるでしょう。今から焼いて置いておくなら、それを見越して、CPRM対応DVDを買うより、BDの方が妥当かなと思います。もちろん、すでに持ってる場合や、とても安く変える場合などは別ですが。


現状、DVDで焼くメリットがあるとしたら、以下の場合だけでしょう。

・CPRM対応なまDVDメディアが余ってる(あるいは、安く手に入る)
・再生するつもりのプレイヤーがVR対応(焼いた機械で再生することも含む)



ちなみに、VRに対応している機械同士でも相性があり、DVDを再生できないこともたまにあるようです。BDの相性に関しては、あるのかどうか未確認です。
[PR]
by asano_kazuya | 2011-12-09 14:54 | 身辺雑記
目の前に、鉄片がある。
その鉄片は、自分の腹から10センチほど離れた場所に横たわっている。

問題ない。いっさい問題のない光景だ。

しかし、その鉄片が30センチくらい自分の腹の方にあったらどうだろう。

物理的には、たまたまX軸上に少しずれただけのことだ。
Y軸にもZ軸にも関係なく、ただX軸上をスライドしてきただけだ。

世界にとって、なんの影響もない、物質の移動。
物理的には、この移動にはほとんど意味が無い。
垂直移動なら、位置エネルギーの変化が著しいが、水平方向の移動には労力は少ない。

というか、移動を考えなくてもいい。

たまたまその鉄片が、台所の片隅を(0,0,0)と仮定して、(30,30,100)センチの位置にあったとしよう。
麻野はその時、(40,30,100)センチの位置にいた。

簡単にいうと、麻野は台所の流しにもたれてて、すぐ横には包丁がある。
それだけのことだ。

ここで、包丁が30センチずれて存在することに、物理的な差異はほとんどない。
麻野がいないところで、神様が、そっと包丁の位置を変えたとしても、何の問題もない。

あ、そうでもないか。包丁が床に落下するか。これは位置エネルギーが大きく変わる。

しかし、流し上で、30センチ横にスライドしたならどうだろう。
別になんの問題もない。
エネルギーは変わらないし、だれも気づかない。

しかし、麻野が流しにもたれているときに、神様がそっと鉄片の位置を変えたら、麻野は死ぬ。

これは、世の中に少しは影響を与える。

まず、家族はえらいことになる。
友人もイヤな気分になる。
葬式屋が活動をはじめる。
区役所の書類が書き換えられる。
今後、麻野が作ったかもしれないゲームや本は世にでなくなる。
つーか、まず、オレが痛くてかなわない。
死ぬのいやだし。

麻野がもたれてないときに、30センチ鉄片が動いたとしても、人のいない森で木が倒れたくらいの影響しかないのに、なぜ、麻野がもたれていたら、なんだか大変なことになるのか。
たかだか鉄片の位置の変化が、なぜこんな結果となってしまうのか。

このことが、もう、ずーっと不思議で不思議でしかたない。
どうしても、腑に落ちないのだ。
[PR]
by asano_kazuya | 2010-11-16 22:41 | 身辺雑記
日経オンラインのコラムを読んだ。とても同感する。

以下、同感した部分を引用する。

ついでに申せば、世の経済通や専門家を、私はあまり信用していない。
というよりも、彼らについて、どう判断して良いのやら、いつもわからなくなるのだ。
わからなくなる理由は様々だ。
「この人は本当にわかっているのだろうか」というふうに、能力や見識を疑う場合もあるし、「本気で言っているのか?」と、真意ないしは誠実を疑う場合もある。いずれにせよ、彼らの話を私は割り引いて聞く。他の分野の専門家が自分の分野について語る時には、一定の敬意を持って耳を傾ける。でも、経済は別。あまりにも混乱しているから。

たとえば、経済の専門家が何人か集まって議論をする。
と、同じひとつの問題について、まったく異なった見解が論者の数だけ並ぶことになる。
ある学者は財政出動が急務だと言い、別の評論家は赤字国債に頼るべきではないと言う。さらに別の元経済官僚は日本経済の底堅さを強調し、ゲストのマダムは雇用の確保こそが何よりの緊急課題だと言う。

彼らは、それぞれにもっともなことを言っているように見える。
でも、主張はまるでバラバラだ。というよりも、全員の話をまとめると完全に支離滅裂な施策になる。
ということはつまり、集まった専門家のうちの、一人を除く全員か、でなければ全員が的はずれなことを言っていることになる。なんたるカオス。


麻野も、ここのところ経済の専門家の本を読んでいる。
しかし、読めば読むほどわからなくなる。

上記コラムの執筆者の小田島氏も「問題なのは、正式に勉強したわけでもなく、必死に考えたことさえない分野について、思いつきで安易に言及する態度だ。これはいましめねばならない。そう思うから、私は当件について、経済通っぽい発言を控えている次第だ。」と言っているので、麻野なんかが経済についてはなにも書かないほうがいいのだろうが、どうせこんなブログ、読んでる人も少ない。だから、備忘録の一種として書いておく。

昨今の経済状況において焦点はいくつかあるようだ。

・財政政策、主に公共投資の是非
・金融政策の是非
・インフレターゲットの是非
・円高の是非
・民主党のばらまき政策の是非

他にもあるが、おおまかにはこんなもんか。
それぞれに、「やるべき」「いや、意味ない」「むしろ害」という意見があって、さっぱりわからない。

たとえば、公共投資。
これだけ景気が冷えてるなら、国が景気の火付け役として仕事をつくる必要がある。雇用も増えるし、金が回り始めるというのが、公共投資推進派の意見だ。

それに対して、「いや、公共投資だけやっても意味がない。金融緩和もセットにしないといけない」という人たちがいる。
また、「公共投資はムダと利権の温床になる」と毛嫌いする人もいる。それに対して、推進派は、「ムダとか利権とか言ってる場合じゃない。まずは景気をよくしてからだ」と反論する。すると、「そもそも、政府がお金をだす対象を決めるのがおかしい。それでは社会主義だ」との反論があがる。「そもそも乗数効果なんかないに等しいから、偏った業界に金ばらまいてるのと同じだ」とも。

そろそろ、なんだかわからなくなる。

インフレの話もそうだ。デフレはあまり好ましくないというところまでは、大方一致しているが、インフレにしようという派と、意図的にインフレにはできないという派がいる。これは前例がない試みだそうで評論家も二分されている。素人の麻野には判断しようがない。

そう。インフレターゲットなんかもそうだが、「是非(いいかわるいか)」と、「可否(できるかできないか)」は別の話だ。たとえば、公共投資ならやろうと思えばできるだろう。賛否両論あったとしても。

しかし、円高はどうだろう。

たとえ円高が好ましくないと言っても、円高をとめられるものか。
もちろん、ドルを買って円を売るなどの為替介入はできなくはないが、一国だけでやっても焼け石に水だ。
欧米や中国の協力を求める必要があるが、今のところとても否定的だ。

そもそも、円高といってはいるが、実質的にはまだ円安だという学者も多い。もっと円高が進んでもおかしくないというのだ。もし、これが本当なら、円高はもっと進むことになる。で、これに関しては、麻野もなんだかそんな気がする。素人なんで、なんとなくでしかないのだが、他の国に比べたら、まだまだ国力があるから、円高が進みそうに思えるのだ。

まあ、なんでもそうだが、不自然な状態は長い目で見ると是正される。となると、円高はまだ進むだろう。そうなると、輸入品は安くなるから、またデフレになるだろう。

円安希望とか、インフレになってほしいとか。気持ちと裏腹に、実際は、どんどん逆になりそうだ。

そうなると、産業構造の変換しかないのだろうなあ。もっと内需型になって、もっとサービス業がふえてという。しかし、これが大変だ。みんな、仕事変えなくちゃいけない。倒産する会社はまだまだ増えるだろう。



麻野が生まれてから、「今が日本の転換期」というコトバは、もう何度も何度も何度も聞いてきた。「第二の幕末」などという言い方なんかもそうだ。新聞もテレビも本も、評論家も、いつでもそんなことを言っていたので、ずーっと本気にしてなかった。

しかし、ついにここに来て、それらしきものが起きているんじゃないかという気がしてきた。
もちろん、国難としては、戦争に負けたときに比べたらたいしたことないだろう。あっちの方が、どう考えても壊滅的だ。

しかし、産業構造をおもいきり変えないと生き残れないという意味では、ついに「第二の幕末」になってきたのかもしれない。今まであまりそういうことを思ったことのない俺も、だんだん思いかけてきた。

単に、年取ってきたから、ものごとを受け止める柔軟性がなくなってきただけかもしれないが。
[PR]
by asano_kazuya | 2010-08-27 15:04 | 身辺雑記
英語でとても意識されるのに、日本語では無神経な感覚に、「単数複数」がある。英語だと「a cat」か「cats」かを明確に使い分けるが、日本ではどちらも「猫」である。

道を歩いていて、「あ、猫がいた!」という場合、そこに猫が2,3匹いようが、1匹であろうが、日本人は気にしない。「猫がいた」、「猫たちがいた」という使い分けは基本不要だ。5,6匹もいたら、「猫がいっぱいいる!」になるが、驚きの内実がすでに別のものになっている。

「古池や、蛙とびこむ、水の音」という芭蕉の句を学んだ英米人が、「先生、この場合の蛙は何匹でしょう?」と質問したとか。この生徒の頭の中では、何匹もの蛙がジャボジャボと池に飛び込んでいたのかもしれない。日英の差を感じる。

しかし、そんな日本人だが、絶対に複数と単数を意識する場面がある。それは、二人称の場合だ。「あなた」と「あなたたち」、「きみ」と「きみたち」、「おまえ」と「おまえら」。全然ちがう。

「おまえ、ええかげんにせえよ!」と「おまえら、ええかげんにせえよ!」では、想像する光景がまったくちがう。「あなたたちにお願いがあります」と「あなたにお願いがあります」とは、その場の空間の広ささえ変わってきそうだ。「きみら、おもろいなあ」と「きみ、おもろいなあ」を言い間違える日本人はいないだろう。

日本人も単複の差に神経質・・・というか、神経質以前の問題として、あまりにも自明のものとして単複を使い分けているのだ。ただし、なぜか二人称のときだけ。

おもしろいことに英語だと逆に二人称に単複の差がない。どっちも「you」である。ここまでくると、お前らわざと日本人に逆らって、英語つくったやろ、といいたくなる。
[PR]
by asano_kazuya | 2010-06-01 12:13 | 身辺雑記
前の記事を読んで、自分で自分につっこみたくなった。

そりゃ、いつも変化してるだろうが、どう考えても『大変化」というのはあるだろう。

イギリスの産業革命しかり。日本の明治維新しかり。
この二つは、相当大きい。
また、インターネット以前以後も、ジンギスカン以前以後も大きい。

となると、単なる変化と大きな変化は違う。

最近は、いつも、なにかが変化している。特に、19世紀以降の世界の変化は激しい。
だから、もう、今となっては変化そのものは騒ぎ立てる必要はない。
ただし、変化とは別に大変化もあり、それは注意して分けないといけない。

世界を「動いてる車」に見立ててみる。

車は走っていると、ずっと移動している。景色も変わるし、燃料も減る。場所も変わる。
しかし、時速50キロで走ってる車は、10秒前とかわり映えしない。
しかし、80キロに加速したら、それは50キロのときとは違う。

この、加速の瞬間は、時代の変化といってもいいのではないか。

なんだか、書くのに飽きてきた。終わり。
[PR]
by asano_kazuya | 2009-08-10 10:37 | 身辺雑記
二十の頃、本屋に行くと、「激動の時代を生きる」とか、「今は、経済的、歴史的な大転換期にある」といった内容の本がゴロゴロしていた。
世界的な視野だと「産業革命以来の転換期」であり、日本的な視野だと「明治維新以来の未曾有の危機」をどう生きていくかを説いた本たちだ。

その頃の麻野は、「へえ、そうなんだ。今は大変な時代なんだ」と素直に思っていた。
1980年代の話だ。

そういう本や論調は今もある。
たとえば、今日の日経ビジネスの、ある記事はこういう書き出しだ。

「現在、世界は大きな時代の転換期を迎えています。1年前、あんなに自信にあふれ輝いていたトヨタ自動車が、大きな構造変化の中で3度の業績下方修正を重ね、苦しみもがいている姿はまさに象徴的です。
 資源、エネルギー、BRICS、イスラム教、オバマ大統領、高齢化、温暖化、金融危機、世界不況、あらゆる事が物凄いスピードで動いています。例えば、5年後の自動車産業は、かつてレコード産業や写真産業が経験したように、大きく変わっていることでしょう。」

別に、この記事にいちゃもんをつける気はない。本当にその通りだと思う。

ただ、ハタチの頃から、ずっと気になっているのだが、「今が時代の転換期」というのは、常套句なのだ。

More
[PR]
by asano_kazuya | 2009-08-10 10:25 | 身辺雑記
今日、歯医者で歯の神経を抜いた。

中学のとき歯の神経を抜いたら、その夜七転八倒の苦しみを味わった。それから、「神経を抜く = 晩のた打ち回る」が麻野の中で鉄板の法則になった。

今回痛んだ歯は、2ヶ月前に治療した歯だ。だいぶ神経に近いところまでけずったので、治療後は痛む可能性がある。そのときは神経を抜きましょう。そう医者から予言されていたら、あんのじょうそうなった。普段はいたくないのだが、温度差がしみるのだ。最初は氷水とか熱いスープが沁みる程度だったのが、昨日あたりは、水道水でも沁みるようになった。ぬるいコーヒー飲んでもうずく。そうなるとメシが苦痛になる。

とはいえ、健康な神経を抜くのはいやだ。だから、金属をセラミックにかえるなど、詰め物を熱伝導率の低いものにかえれば対処できないか。よし、それを相談しようと、歯医者にいったのだ。

しかし、歯医者の診断は無情だった。もう炎症が始まってるので、そんなことしても意味がないという。麻野は今晩の地獄を恐れた。「覚悟の時間をください」と医者に乞うた。「10分くらいならいい」といわれ、「いや、2,3日は欲しい」というと、「炎症がひどくなると余計つらいですよ。麻酔効かなくなりますから」と、麻酔の効かない患者の悲惨な治療風景を教えられた。

観念して、今晩どれくらい痛いか聞いたら、痛くないという。治療後は、風呂も運動も酒も問題ないという。中学時代の話をしたら、それは、治療時に神経を抜ききれてなかったからでしょう、という。

治療はあっという間に終わった。何も痛くない。そして今も痛くない。麻酔のせいで唇は麻痺してるが、今からフットサル行って、酒のんで来る予定だ。俺のあの中学の地獄の一夜はなんだったんだ? 単にヤブ? それとも、やはり今夜苦しむことになるのだろうか・・・・・・。
[PR]
by asano_kazuya | 2007-07-28 14:01 | 身辺雑記
「ナウなヤング(死語)」という言葉がある。この言葉、おもしろいことに、生きてたときより死んでからの方が寿命が長い。「ナウなヤング」は死語だが、「ナウなヤング(死語)」は現役だ。

確か麻野が高校生くらいのときにできた言葉だと思うが、そもそも「ナウな」ではなく、「ナウい」だったはず。形容動詞ではなく形容詞だ。ところが、いつの間に「ナウな」になっていた。そっちの方が、より野暮ったくて、「(死語)」をつけるにふさわしいということか。

この「ナウい」が、当時世間でどういう受け止められ方をしていたかというと、まあこんな感じだ。(以降、すべて麻野の独断と偏見に基づく)

1:都会の若者が使う、先端の言い回し。憧れ。
2:「若者言葉の乱れも、ついにここまできた。英語に「い」をつけるなんて、無茶もいいとこ。」という良識的な大人の嘆き。
3:なんとなく座りが悪い。
4:アホか。(鼻で笑う)

3と4のは、まあ同じようなもんか。で、数字としては1が0.5%、2が10%、3が90%だ。まあ、ほとんどの人がとまどっていた。

「ナウい」の歴史はこんな感じだ。きっと。

1:たまたま東京で、「ナウい」という言葉を使った若者がいた。それが8割の「バカバカしさ」と、2割の新しさで少しだけその周辺のグループで流行った。
2:それを聞きつけたマスコミが、大々的にあおった。オッサンは嘆いたりあきれたりして若者を攻撃するネタになった。
3:あまりに座りの悪い言葉なので、実際はほとんどの人間が本気では使わなかった。
4:あっという間にすたれた。

当時、関西にいた麻野の仲間内で、この「ナウい」という言葉を日常使う人間はいなかった。ただ、露悪的に、あえて使うことはあった。そのときは、ニヤニヤしながら、今からすごく恥ずかしい言葉を使うぞという雰囲気を満面に漂わせながら、「おお! ナウいのう!」とあえてオッサンくさくいうのだ。今で言うと、受けないのをわかっててあえてそれを逆手にとって、親父ギャグを言うノリといおうか。あるいは、「それってなに? ナウい……とかいうやつ?」みたいな思い切り腰の引けた言い方をした。関西圏以外でどう受け止められてたかは、知らない。

逆に、もしも日常会話で、スラッと「ナウいね」なんていおうものなら――たとえば、こんな会話があったとしたら、

A:ほら見て。新しいウォークマン買うたんや!
B:うわ! ナウいやん!

おそらく、Bは言語センスを疑われて、もう誰からも口を聞いてもらえなくなったであろう。そういう意味では地雷のような言葉だった。

だから、「ナウい」の寿命は短かった。高校のころに「そんな言葉がある」と知って、、20歳のときはすでに「なんだかしらんが、ちょっと前に流行った(というか、流行ったとマスコミが言ってた)言葉」になっていた。おそらく、寿命は5年もなかったと思う。

本来ならそのまま消えるはずの言葉だったんだと思う。「チョベリバ」とかと同じような運命だったはずなのだ。

ところが、それからしばらくして、全然関連のない話だが、「死語」という言葉が流行った。「死語の世界」とかいう本まで出た。

この「死語」という概念は新しかった。「ナウい」という言葉の「新奇さ」とは比べ物にならない、本質的な「新しさ」があった。というのが、それまで、「流行りモノ」というのは、新しいものばかりだったのが、この「死語を楽しむ」というのは、「後ろをむいて楽しむ」、「過去を笑う」という点で、今までにない感覚だったのだ。

ちなみに、この「死語」ブームの前にも「レトロ」ブームというものがあったが、こっちは、今の「昭和30年代ブーム」に近くて、割りとマジメだった。その分、つまらない。「死語」ブームの方が、色んな意味でラジカルだった。というか、もう立派に普遍性を持ってる。今でも、中途半端な死語をあえて口にするのは、飲み屋での話題としては十分楽しい。いかに中途半端な死語を発するかかと言うのは、素晴らしくセンスが問われる行為だからだ。

その「死語」が、「ナウい」とくっついた。まさに、その「死語」ブームの中で、ちょうどピッタリ「死語感」が合ったのが「ナウい」だったのだ。

最初に「ナウい(死語)」という言葉を目にしたとき、麻野はひどく受けた。大笑いしたし、「うまいこというなあ」と感心した。やがてこの言葉は一大ブームとなり、そのうち、書き言葉ではなく、口で言うときも「ナウイ、カッコ死語カッコとじる」と神経症的に言うくらいに流行った。さすがに今では手垢にまみれてしまったが、今でも、「ナウイなあ、カッコ死語」というヤツは、まだいる。もうええ加減にせえよと思うが、まだいる。まったくナウくない話だ。

で、おもったんだけど、なんで、「ナウい(死語)」がこんなに流行ったかというと、相反する理由が二つ考えられる。

一つは、みんな、心の底では「ナウい」という言葉が大嫌いだったのだ。嫌いだったんだけど、流行ってるし若者の言葉としてもちあげられてるので、おおっぴらに嫌うこともできない。そんなとき、「ナウい(死語)」と言う言葉が発明されたんで、喜んでバカにする意味で使い出した。

もう一つは、みんな、心の底では「ナウい」と言いたくて仕方がなかったというもの。言いたかったんだけど、あまりに新しすぎて恥ずかしかった。その照れ隠しを、「ナウい(死語)」が担ってくれた。

とまあ、矛盾する二つの理由だが、人によってどっちかが正解だったんだろう。そして、それに「ヤング」がつき、完璧になった。

「ヤング」はもう、あまり言及する気はないが、確かに、「死語」ブームの頃、きっちり「死語」になっていた。服屋で「ヤングもの」という言葉として生きてるのが精一杯だった。つーか、「服屋」という言葉も死語だな。そういえば、この前、青山あたりを歩いてて、「うわー、この辺、服屋ばっかりやなあ」と声をあげて、周りの女子から「おっさんくさ!」とバカにされたのを思いだした。今はブランドショップというらしい。はあ……。
[PR]
by asano_kazuya | 2007-03-27 12:32 | 身辺雑記
驚いた。

コメントやらトラックバックやら、知らん人のが多すぎる。
とりあえず、今年のトラックバックに関しては掃除した。

あとは、ボチボチ手を入れていくことにします。

このブログ、どうしたものかと思うのですが、ときどき、仕事のことでマジメにコメント書いてくれる方がいるので、少しは利用価値があるのかとも思ってます。

そういう意味もふくめて、もう少し、マメに手入れするようにします。
[PR]
by asano_kazuya | 2007-02-20 00:52 | 身辺雑記
漢字には訓読みと音読みがある。

音読みしかないものは、中国からはじめて入ってきたものだ。だから、「茶」には訓読みがない。逆に、両方あるものは、もともと日本にもあったものだ。日本で「やま」と呼んでいたものにたいして、「山」という字が「サン」という音とともにはいってきた。

で、最近の疑問。

「寺」は訓読みで「てら」という。しかし、中国からはいってくるまで、日本に仏教はなかったはず。それまで、「てら」と呼ぶものがなにかあったのだろうか。
[PR]
by asano_kazuya | 2006-12-26 18:02 | 身辺雑記