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ブログの存在意義ってなんだろうか。

1:日記
2:意見のぶつけあい。
3:ビジネス

評論家のブログとかだと、みなさんコメントやトラックバックで、社会問題や政治経済に関して意見をぶつけあって、 理解を深めたりしてる。これは2だしそれでその評論家の本が売れることもあるだろうから、3の意味合いもあるかもしれない。。

会社の社長や社員が、商品や会社に興味を持ってもらう、いわば業務の一環として、ブログを書いていることもある。これはもう、1の体裁をとった3だろう。

「麻野ブログ」はどうだろう。意見のぶつかりあいなどはほとんどないし、「すべては表面的な理解」でとどめるのを方針にしてるから、2ではない。エキサイトの企画があったころなら、うすーく3もあった。しかし、今はもうその企画はない。なので、ホントに純粋に1ということになる。

とかおもってたら、あるサイトの記事をみつけた。ここでリンクはりたいのだが、どうもパスワードのない人ははいれたにみたいなのでやめておく。

主旨は、「ブログのコメントでのやりとりを通じて、子供時代うまく気づけなかった母子関係の再構築を可能とする側面もある」という、主にブログの心理学的効用をうたったものだ。


なるほど。心理的効果というのは確かにある。

この記事のように、「転移」がどうとまでは思わないが、心の中のもやもやが、とりあえず文章にしたらスッキリする。言ってみれば心のウンコのタレ流しなので、読まされるほうはイヤかもしれないが、本人の精神衛生には役立ってる。

電話は、音楽を聴く道具として発明されたという。ラジオは最初、その特性から、「国や地方自治体から市民への連絡手段」として期待された。

このように、発明の目的と普及時の役割が大きく変わったものって結構ある。ブログもまだ過渡期だ。今後、思っても見なかった使われ方をするかもしれない。
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by asano_kazuya | 2006-04-29 12:24 | 身辺雑記
阪神が阪急に買われるとか。

むかし、「かんべむさし」という作家が、「決戦日本シリーズ」という短編SFを書いた。セリーグで阪神が優勝し、パリーグで、今はなき阪急ブレーブスが優勝し、日本シリーズは、関西の、それも阪神間(どっちのホームグラウンドも西宮)だけでもりあがるという、超ローカルだが、そこに住んでる人間にはたまらなくワクワクする小説だった。

阪神間というのは、大阪から神戸へと東西に長い地域だが、その地域を北から阪急、JR、阪神の三線が、ほぼ平行に東西に走っている。でもって、大体、高級なイメージというのは、阪急沿線>JR沿線>阪神沿線であり、なおかつ、尼崎とか西宮、芦屋など、それぞれ生活文化がまったく異なった地域を串刺しにしていた。これらの町は東京でいうと、蒲田と武蔵野と松涛みたいなものだ。「決戦日本シリーズ」は、その辺の地域差も書き分けていて、メチャメチャおもろかった。

小説では、優勝した方が負けた方の路線に電車を走らせるという設定になっていた。阪神が勝ったら、阪急の線路を阪神電車が走り、阪急が勝ったら、阪神の路線を阪急が走るのだ。

その当時、阪神と阪急は今津という駅で、ほとんどくっついて存在していた。小説では、その状況を利用して、今津から乗り入れるということになっていた。普段今津を利用している麻野にとっては、それはも、ものごっつうリアリティのある話やった(実際は、高速神戸の方へいけば、乗り入れはもっと楽にできるかもしれないが)。

結末は二通り描かれていた。途中から上下に段が分かれいて、両方が勝った場合の結末が読めた。阪神ファンにも阪急ファンにも満足の結末だったのだ。ただし、実際のところ、阪急がパで優勝することはあっても、阪神がセで優勝する日が来るとは、阪神ファンの麻野でも、夢にも思ってなかった。そのころの阪神は信じられないほど弱かったのだ。

麻野がこの小説を読んだのは、中学か高校のころだった。やがて月日は流れ、阪急ブレーブスはなくなった。なんか、あっさりなくなった。西宮球場も、今はどうなったかしらない。競輪だか競馬場として残ったんだっけ? それとも住宅展示場になったんだっけ? それは南海の球場だったっけ? それで宮部みゆきの火車だったっけ? ……えーと、あいまいだ。ただ、あっさり消えたけど、心のすみで、「ああ、これでもう決戦日本シリーズはできなくなったな」と思ってた。

でも、まあいいや。阪神あるし、甲子園あるしと思ってた。最近は、優勝もするしと思ってた。

ところが、阪神が阪急に買われるという。

まさか、阪急タイガース? ええ! まじすか?!

子供の頃よく行ってた二大遊園地。甲子園阪神パークと宝塚ファミリーランド。両方ともなくなった。この上、阪神タイガースまで、阪急タイガースになっちゃうの? 関西の地盤沈下とかいわれるけど、もう勘弁してよといいたい。のこのこ東京に出てきてずっといすわってる麻野が偉そうにいえる話じゃないんだけどね。すんません。

気になるのは、どっちの車両になるかだ。でも、おそらく阪急だろうな。あの小豆色の車両の方が、阪神のツートンカラーより、どう考えても品がいい。となると、出屋敷や杭瀬を小豆色の電車が走るのか。淀川や鳴尾に小豆が……。阪神梅田駅が小豆一色……。

ああ、そうか。阪神百貨店も第二阪急百貨店とかになるのか。地下の立ち食いのイカ焼きにベルバラの模様が押されるのか。チャーメンに花組セットとか宙組セットとかの名前がつくのか。小豆色の電車に、禁治産者みたいな人やガラの悪い人間がドヤドヤと乗ってくるのか。黄色と黒の縦シマのかっこうしたタイガースファンが、六甲おろしを歌いながら、甲子園の駅から小豆色の車両にのって、梅田まで阪神線をひた走るのか。ああ、それもおもろいかもしれん。おもろいかもしれんなあ。

結局、思いもせんかった形で、かんべむさしの世界が実現するのかも知れんなあ。
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by asano_kazuya | 2006-04-18 20:19 |
いつもいつもつまらないことを書いてるが、今回は、本当につまらない。時間のムダにしかならない話だ。書いておいてなんだが、読まないことを強くお勧めする。




「人生の裏街道」というフレーズがある。

ヤクザや詐欺師なんかの犯罪者が自嘲気味に言うのだ。「あっしは、人生の裏街道を歩いてきたんでござんす。お天道様に顔向けできない人生ざんした」などと。

しかし、どうにも不可解なコトバだ。麻野は、子供の頃、このフレーズを初めて聞いた時、説明しがたい居心地の悪さを覚えた。

意味としては、「裏社会を生きてきた」ということだろう。それはわかる。が、それがなんで、「人生の裏街道」という表現になるのだ? 「裏の人生街道」とか「裏街道人生」ならわかるんだけど。

麻野の疑問は伝わりにくいかもしれない。もう少し詳しく書く。

英語だと、冠詞によって、同じ単語でも、その意味合いが変わる。「a」だと、一般的なものを指し、「the」だと、ある特定のものを指す。たとえば、「a car」は、「ある車」であり、「車というものは」であり、「the car」は「その車」だ。

……もしかしたら違うかもしれない。自信ない。まあいい。何がいいたいかというと、日本語には、英語のような冠詞がないから、どっちともとれる場合があり、片方だと変に聞こえるが、もう片方だと変じゃない場合がある。で、「人生の裏街道」の場合はどうかというのを検証したいのだ。

「人生の裏街道」の「人生」は「人生一般」なのか、「ある特定の人の人生」を指すのか、どっちなのか。(「ある特定の人の人生」は「馬から落ちて落馬した」みたいな言い方だな。「ある特定の人の一生」の方が適切か。どうでもいいけど)。

英語は不得意なのでまちがってるかもしれないが、あえて書くと、

A:I walked on a 裏街道 life.
B:I walked on my 裏街道 life.

の、どっちをいいたいんだろうかという話だ。

Aの「a life」だと、「いわゆる人生には裏街道人生と表街道人生がある」ということになる。Bの「the life (my life)」だと、「あっしの人生には裏街道人生と表街道人生がある」ということになる。

しかし、後者は論理的に変だ。人生は一度きりなので、生きてきた人生と違う人生というのは、空想のなかにしかない。「あっしの人生の裏街道」という表現には、言外に「表街道」というものもあったことを示している。しかし、何度も書くが、人生というのは一度きりのものだ。本人にとっては裏も表もないはず。単に他人と比較して「オレの人生、なんだか裏っぽいぞ」と思ってるだけだが、そのときの「裏っぽい人生」の「人生」は、「a life」のほうだ。

I walked on a 裏っぽい life。

ということになり、Bではなく、Aになってしまう。

「裏の顔」というものはありうる。表向きは善人だが、人の見ていないところでは悪人というのは、ありうる。しかし、人生の表街道を歩いたり、裏街道を歩いたりというのは、意味がわからない。表を歩いてきたからこそ、裏を歩いたといえるのだが、もし、表を歩いてるなら、裏街道を歩いてきたと、理論的にはいえない。

じゃあ、前者だろうか。Aの「a life」なんだろうか。だとすると、特定ではなく、色々ある人生一般のうちの、ある生き方のことを言ってることになる。でも、そしたら、やっぱり、「人生の裏街道」という表現より、「裏街道の人生」の方がしっくりくる。

「人の一生というものに、表側の生き方、裏側の生き方というものがあるとしたら、あっしの人生は裏側でした」と。そういう意味で、「裏街道の人生でござんした」なら、喜んでうけいれよう!

うーん。たぶん、まだうまく伝わってないだろうなあ。
じゃあ、こういうのはどうだろう。ある人(ネコでもいい)が自分の人生を振り返ってこういうのだ。

「私は人生の男(オス)を生きてきた」

変でしょ?

「私は男(オス)の人生を生きてきた」

これだと、すんなり頭にはいるでしょ。(ネコだと「人生」じゃなくて「猫生」じゃないかというのはおいといて。)

ちなみに、「今、人生の春を謳歌している」とか、「人生の秋を味わっている」は全然OKだ。「人生」を「四季」にわけて、いまどこにいるかは、ありえる話なので、違和感がない。

「裏街道の人生」とか、「裏街道めいた人生」なら、納得が行く。世の中には、さまざまな人生がある。裏街道といわれる人生も、表街道といわれる人生もある。でもって、「わっしは、悪いことばっかりして、裏街道の人生でござんす」なら、すんなり頭にはいる。

でも、「人生の裏街道」といったとたんに、「わしの人生の裏街道」と聞こえて、「人生のオス」ってなに? と同様の違和感が生じるのだ。

双子がいて、「私は表街道を歩いてきた」、「あっしは裏街道専門でした」という前提があった上での、「あっしは(わしら二人の)人生の(うちの)裏街道を歩いてきました」なら、許せる。ありえる。かまわない。

でも、そんな前提のある話じゃない。あたりまえだけど。

そもそも、世の中には裏表が発生するものと、発生できないものがある。紙に裏表はあるが、球に裏表はない。あえていうと、見ているこっち側が表で、見えないのが裏だろう。「月の裏側」とかいうから。が、あくまでも便宜上のものだ。球体の裏表は確固とした識別はしにくい。個人の人生はは紙タイプではなく球体タイプ……って、これはあんまり関係ないか。

オスの人生はあるし、メスの人生もある。しかし、人生のオスや人生のメスはない。「世間の裏街道」ならあるし、「社会の裏街道」もある。「裏の人生街道」という表現なら文句ない。でも、「人生の裏街道」だけは、麻野はいまだにしっくりこないんだ。





ね、つまらなかったでしょ。読んだ人。すんません。わからなかったらイライラするだけだし、わかったとしても、だからなんなんだ、という、最悪の話でした。それに大体、麻野が勘違いしている可能性も大いにある。

しかしねえ。子供の頃って、こういう違和感を持っても、伝える能力がまったくない。微妙すぎてうまくいえない。ただ、ストレスがたまるだけ。

この年になっても、これぐらいの表現力しかないので、100人いて、何人に伝わってるかわからないけど、1人でも伝われば、すごくうれしい。大人になってよかったと思える瞬間かもしれない。
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by asano_kazuya | 2006-04-06 22:49 | 身辺雑記