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無償の愛

前、なんかでこんな文章を読んだ。

「男女の愛はどんなに無償に見えても、最終的には「寝たい」とか、「相手に愛されたい」という欲望が根底にあるから、ホンモノではない。それに比べると、親の子に対する愛情は、まさに無償の愛といえよう。なんの期待もない。」

これを読んだ当時は、まだ子がいなかったので、はあそんなもんかいな、そうかもしれんなあと素直に飲み込んでいたのだが、今、子のいる立場になってみると、そんなことはウソだとはっきりわかる。親の子に対する愛情も、決して無償ではない。

とはいっても、別にコドモに老後の面倒を期待しているとかそういうことではない。

前に、このブログで、コドモにオモチャを買ってやるときの心境は、自分のパソコンにメモリーを増設するようなものだと書いたことがあるが、やはりそれに近い。「マシンが速くなった=コドモが笑った」、なのだ。秋葉に行って、メモリを買う。速くて大きなHDDを買う。パーツを手に取り、さぞかし快適に動くだろうと想像しながらほくそえむ。これと、コドモに三輪車を買ってやろうとオモチャ屋でニヤニヤするのはまったく一緒だ。思いっきり見返りを期待しているのだ。

いやいや、それくらいの見返りなら無償だ。無償ということにしとこうぜ、というのなら、いわゆる男女の愛も無償だろう。愛されたいとか寝たいというのは、コドモの笑顔を求めるのとどれほどの差もあるとは思えない。金や地位目当てにくっつくのなら別だけど。ついでにマシンのチューンナップも無償の愛だ。だってあんまり意味ないもの。

で、こんなことを考えてたら思い出したのが、井伏鱒二の「山椒魚」。これ、「ふいんき語り」でも対象にした本だけど、とにかく作者がいつまでも推敲したので有名な小説。短編なんだけど、というか、短編であるがゆえにか、機会があるたびに、あっちをけずったり、こっちを変えたり、死ぬまでやっていたらしい。

気持ちはわかる。ゲーム作ってても、いつまでもいつまでもいじっていたいときがあるから。小説でもゲームでもシメキリがある。いったんは切る。しかし、そのあと、ゲームの場合は、開発環境は必要だし、そもそも権利が個人にないのでいじれないが、作家だと、ペン一本でできるし、権利もある。やりたくなるだろうなあ、と思う。

ただ、すべての作家がそんなことをするわけではないし、井伏鱒二にしても、推敲するのは「山椒魚」くらいだろう。それだけ、愛着があるんだ。きっと。そして、おそらく、それは無償の行為だろう。いくらなんでも、「ここけずったら、また重版かかるだろう……クックック」などと考えて推敲してるとは、考えにくい。真に好きでやってるに違いない。これも立派な無償の愛だ。

ただ、男女の愛とか、親子の愛に比べて、いったん出版した本を、あまり何度も推敲するのは、素直に暗い。後ろ向きだ。そんなだったら、新しい本書いたほうがいい。しかし、新しい本を書くのはパワーがいる。だったら、ずっといじっていたい。気持ちは分かる。だいたい、山椒魚という小説じたい、まあ、暗いっちゃあ、暗い。

こうやって、だんだん、井伏鱒二が気になる存在になってくるのであった。
by asano_kazuya | 2005-12-27 16:15 | 身辺雑記